終戦の翌年1946年(昭和21年)に泉陽高校の前身である大阪府立堺高等女学校を卒業された小林昭子(旧姓:北野)さんに、母校で空襲に遭った体験をお聞きしました。
きっかけとなったのは、小林さんから送られてきた2025年の泉陽会東京支部総会への出欠はがきです。はがきの通信欄に母校での空襲体験が書かれていました。戦後80年となり戦争体験の継承が課題となっている折、是非お話をお聞きしたいと小林さんに連絡したところ、「記憶のあいまいなところもありますが・・・」と言いつつも快諾してくださいました。
▲写真① 前列 小林昭子さん(中央)とご長男ご夫妻
後列(左から)東京泉陽会 会長天野、松田、宮下、田原
― 戦時下でどのような学生生活を過ごされましたか。
自宅は諏訪ノ森で、堺高等女学校には船尾から妙国寺前まで阪堺線に乗って通学していました。制服はセーラー服で、私は2年先輩のお下がりをもらい着ていました。学校では毎日、軍隊が運んで来る軍服のボタン付けの手作業ばかりで、授業の記憶はほとんどありません。昼食は母が作ってくれたお弁当でした。実は堺高等女学校に対して「堅苦しい」というイメージを持っていたので、「自由で、お譲さん学校」のイメージが強かった夕陽丘高等女学校へ進学したかったのですが、学区制のため通えませんでした。当時は大手前、清水谷、夕陽丘などが憧れでした。
▲写真② 昭和16年当時の制服(ヘチマカラーとセーラー服)
― 当時楽しかったことは何でしたか。
子供の頃は、湊にあった魚市場へ母がお造りを買いに出かけるのに付いて行くこともありましたが、戦争中は遊びに行くところもない、美味しいものも売ってない、それが当たり前の生活でした。楽しかったことと言えば、友達とのおしゃべりぐらいです。
― 1945年7月10日の堺大空襲の際、学校で空襲に遭われたそうですね。
その日私は校舎の警備当番に当たっていたので、学校に泊まっていました。ラジオの「B29が紀伊水道を通過」という放送を聞いた時には既にB29が来襲していて、ラジオの通報は遅かったのです。校舎が燃え、先生に「各自で逃げろ!」と言われました。私は当番だった友達と一緒に必死で校舎を駆け下り、学校を出ました。堺東方面は火の海だったので阪堺線方面へ逃げましたが、多くの家が燃えていました。大きな池があったので、私達はその中に浸かって難を逃れました。とても怖かったです。でも池に浸かっていて寒くはなかったですね。
明け方4時頃に空が白んできてから池を出て、旧の国道26号線まで歩きました。竜神辺りだったでしょうか、逃げ場がなく川に飛び込んだと思われる黒焦げの遺体が川のほとりに並べられているのを見ました。ひたすら旧の26号線を歩いて、川を渡り風車が回っているのを見て石津川、新田ベルトの建物を見て湊まで戻ったと分かり、福助の社長さんのお宅を過ぎて諏訪ノ森に帰って来たことを実感しました。焼夷弾が1つ幼稚園に落ちたそうですが、諏訪ノ森は焼けていませんでした。
私の兄・英一(諏訪ノ森駅前の北野耳鼻咽喉科医院 前院長)は、私を心配して湊まで様子を見に来ましたが、街の燃え方を見て「妹は焼け死んだに違いない」と諦めて帰ったそうです。私は自宅に辿り着くとそのまま玄関で倒れこんだため、その時の父や母の反応は記憶がありません。私が警備当番だったことを知っていた小学校時代の友達が、心配して沢山自宅に来てくれたことを憶えています。
▲写真③ 昭和20年 空襲後の堺市街(右上は焼け残った堺高女の校舎)
▲写真④ 戦災をまぬかれた旧校舎(左は鉄筋校舎、右は体育館)
― 戦争がなかったら何をやりたかったですか。
戦前の諏訪ノ森は海が近く、別荘地でした。私も子供時代は水着の上にタオルを羽織って海へ遊びに行ったものです。しかし戦争中はいつ空襲があるか知れず、怖くてとても海には行けませんでした。戦争が終わったと聞いた時、これで海に遊びに行けると思い、嬉しかったです。兄が医師になったので、小さい頃は仕事を持ちたいと思い、女医になりたいと考えていました。
堺高等女学校を卒業後、小林さんは大谷女子専門学校へ進学され、商社に勤務。その後結婚して一男に恵まれましたが、早くにご主人が亡くなったことから大谷女子短期大学(旧:大谷女子専門学校)に復学して被服分野の教育者になられ、70歳近くまで大谷女子短期大学などの教育機関で被服分野の教育に携われました。
取材に同席いただいたご家族によると、思い出したくないからと、小林さんはこれまで戦争を話題にすることを避けてこられたそうです。それが「知っていることは話しておきたい」と言って戦争体験を話すことになったことに、ご家族は驚かれたとのこと。今回の取材ではご家族に大変ご協力いただき、そのお蔭で貴重な体験を同窓会で共有することができました。小林さんとご家族に深く感謝申し上げます。
◎写真の出典
「泉陽高校百年」 (平成13年3月27日発行)
編著者:大阪府立泉陽高等学校 記念誌編集委員会
発 行:大阪府立泉陽高等学校 創立百周年記念事業実行委員会